『会報』第2号発行にあたって
本日、海南島近現代史研究会『会報』第2号を発行します。
70年前の1939年2月10日未明、日本軍が海南島に奇襲上陸しました。
その24日前、1939年1月17日に、天皇ヒロヒトは、日本軍の海南島侵入を「裁可」し、同日、大本営陸軍部と大本営海軍部は、海南島を共同で占領するという「北部海南島作戦陸海軍中央協定」を結んでいました。
日本政府と大本営が2月10日に日本軍を海南島に奇襲上陸させたのは、「紀元節」である2月11日に海南島の首都、海口を占領することを計画していたからでした。
日本が宣戦布告することなしに海南島侵略戦争を開始した7か月後、1939年9月に、ドイツ軍が西方から、ソ連軍が東方からポーランドに侵入して分割占領しました。
2008年12月27日午前11時半、パレスチナのガザ市上空に侵入したイスラエル軍F16戦闘機60機は、人口密集地域にたいする無差別爆撃を開始しました。その後、イスラエル軍は、戦闘機、地対地ミサイル、無人機、軍用ヘリコプターなどで毎日爆撃を続け、建物を破壊し、パレスチナ民衆を殺傷しました。2009年1月3日午後7時半、イスラエル陸軍がガザ地域への侵入攻撃を開始しました。それから1月18日午前2時まで、イスラエル空陸海軍は、ミサイル、白リン弾、爆弾、戦車、ブルドーザー……を使って1400人を越す人びとを殺害しました。
人びとが平和に暮らしていた海南島に日本軍が侵入したときから1945年8月なかばまでの6年半、日本政府、日本軍、日本企業は、海南島の人びとに大きな災厄をもたらし続けました。
人びとが平和に暮らしていたパレスチナにシオニストの軍隊が侵入したのは、1948年でした。シオニストは、この年5月14日に、占領したパレスチナの大地をイスラエルと名づけました。このときから、シオニストはパレスチナ民衆に大きな災厄(ナクバ)をもたらし続けています。
イスラエルに住むパレスチナ人以外のほとんどの「イスラエル国民」は、ガザ地域でのイスラエル軍の犯罪を支持しています。
ほとんどの日本国民は、台湾領土化、朝鮮領土化、中国東北部・モンゴル東南部領土化……のときと同じく、海南島侵略のときにも、占領地の拡大を喜び、軍事行動を支持し、日本政府、日本軍、日本企業の侵略犯罪に加担しました。
日本が占領していた時期(海南島民衆が日本の侵略に抗していた時期)の日本近現代史、敗戦後の日本近現代史は、同時代の海南島近現代史と重なりあっています。
海南島近現代史は、パレスチナ近現代史と重なりあっています。
70年まえに日本国民は、なぜ海南島侵略を阻止できなかったのかという問題は、いま、なぜシオニストのパレスチナ侵略を世界の民衆が許し続けているのかという問題とつながっているのだと思います。アイヌモシリ被植民地化140年後、「琉球処分」130年後、3・1朝鮮独立運動90年後、日本の海南島侵略開始70年後の2009年に、本誌が、この問題を、みなさんと共に考えていくひとつの契機となることを、わたしたちは願っています。
2009年2月10日
海南島近現代史研究会